グランパのwalking

                     小田原・秋葉山火祭り

2013年12月6日 晴

施設:小田原城・歴史見聞館 ¥600

    松永記念館 一般¥500(JAF会員¥400)

8時35分、出発。山手線に乗って東京駅で降り、7番線に行く。快速アクティに乗る。

9時15分、出発。隣りに座ったオバサンは新聞のナンバープレースに取っ組んでいた。文庫本「人生の道を拓く言葉130」を読みながら、心に残る章句をノートに書く。26分後、横浜駅。大船の観音様を見る。かっての畑には高層マンションで埋まっていた。藤沢駅でオバサンが降りる。平塚から国府津と停まって行く。

10時26分、小田原駅。トイレに寄って改札口を出る。お城通りを歩いて旭丘高校に出て、右手を回って城の北口から入って行く。娘がしゃがんで猫2匹を眺めていた。古めかしいトイレには「殿」と「姫」と書いてある。

DSC09375.JPGトイレ

上っていくと、左手下で「御用米曲輪」という庭園だった史跡を整備していた。

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地図には駐車場とある。切符売り場で歴史見聞館とのセットを買って、城に向かう。日本100名城の写真を撮る。

DSC09379.JPG小田原城

DSC09383.JPG入口

石段を上がって切符を見せて、中の展示物を眺める。藩主大久保家の紋章と鯱瓦が続く。

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2階では一弦琴、二弦琴、月琴、琵琶。旅に出る時に使う小型算盤、硯箱の他、弁当箱がかわいい。外郎家の説明によると、元が滅んで外郎という薬の官職にあった陳宗敬が日本に帰化。咳や痰に効く薬を伝授。その子宗奇は足利義満に招かれ、家伝の薬を作り外郎と呼んでいる。薬を粉末状にする道具を展示していた。小田原提灯なるものを初めて見る。旅人が携帯できるように畳めるもので、童謡「お猿のかごや」を思い出す。開元通宝から洪武通宝まで唐から明に至る25種の貨幣を見る。3階に行く。城主北条早雲は生前、伊勢盛時と呼ばれ、太閤記によると備中の地方武士に過ぎなかった。いろんな鎧、甲をつけた武士が立ち並ぶ。4階には土産物を売っていて、天守閣の外を一周する。豊臣秀吉が対峙した笠懸山は近くにあった。秀吉が総石垣の城を築いたので石垣山と呼ばれている。一夜城と呼ばれているが、実際は約80日かけていた。奥に箱根の山が見える。

DSC09381.JPG中、石垣山

真鶴半島、ぼんやりと大島、そして丹沢山系が見えた。

DSC09382.JPG丹沢山系、右端、大山

 城を降りていくと、群馬から来た団体に出会う。広場で武士や姫の衣装を着て写真を撮っている外人がいた。東京に住んでいる夫婦とカリフォルニア、ユタから来た家族だった。これから箱根に行って温泉に浸かるという。

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1971年に復元された常盤木門を通る。

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お堀だった本丸車堀跡まで降りて行く。

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歴史見聞館に入る。北条5代の軌跡だが見るべきものはなく、10分間の放映では小田原評定を再現させていた。

DSC09391.JPG小田原城見取り図

外に出るとシニアが働いている。レンタル自転車、駐車場などを分担していた。イヌマキの巨樹の下ではガイドが説明している。高さ約20m、幹回り4.5m。ねじれあがっているが、屋久島の縄文杉の木肌を思い出す。

DSC09392.JPGイヌマキ

無料の郷土文化館に行く。ここにもどっしりした樹木が枝を伸ばしていた。

DSC09398.JPG郷土文化館

 1階では戦前の小学校の机や椅子、教科書などを見学、2階に行くと縄文時代の地図、大きな埴輪、戦前の生活道具、農具が雑然と置かれている。始めて見る扇風機は籾柄を飛ばすためのものだった。

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    埴輪          扇風機

 明治時代の小田原街道風景の写真も貴重だった。

DSC09394.JPG小田原街道

 城内に御用邸があったことも知る。ここでは学術誌を発行していた。これから行く松永記念館のパンフが置いてある。建物と敷地が小田原市に寄贈されて松永記念館は小田原市郷土文化館の分館だった。外に出ると南堀がある。2階に蚊が多かったのも堀池のせいだった。ここには大賀ハスが群生している。1951年、大賀一郎植物学博士が千葉・検見川厚生農場の泥炭層から掘り出した約2千年前の蓮の実を開花させたので名づけられている。

DSC09399.JPG南堀の大賀ハス

 国道1号に出て右折。歩いていくと「幸福の科学」の建物が左手にある。山角町で「日本橋まで85キロ」と書いた標識が立っている。タチウオの味りん乾しやカマボコを売っている。居神神社の先を右折、東海道線、新幹線の下を通る。道脇に秋葉山火防祭と書いた赤い旗を立てかけている。下には名前を書いていた。ボンジュールベーカリーに入って女性にラーメン屋を教えてもらい、少し戻ってトマト麺のラーメンを食べる。午後1時過ぎていたが、後から客がどんどん入ってくる。食後、ベーカリーに寄って非常食用にカステラ入りパンと店特製のパンを買う。この店は創業8年、彼女は小さい頃から火祭りに行っていた。

 午後3時までの時間を松永記念館で過ごす。案内版に従って右折、香林寺の手前を左折して入る。

DSC09402.JPG松永記念館本館

 本館2階の「ルネ・ラリック ガラスの煌き金唐紙と織りなす花鳥風月の浪漫」を観る。箱根ラリック美術館からの作品と、日本で唯一金唐紙を手掛ける上田尚氏の作品とのコラボレーションで、ガラスと和紙のなせる技を楽しむ。休憩コーナーで景色を眺める。別館を眺め、平安時代のものと言われている長安寺石橋を渡って池を一周する。

DSC09401.JPG別館

DSC09403.JPG長安寺石橋

 松永安左ヱ門(耳庵)が60歳になってから住んだ老欅(ろうきょ)(そう)に行く。大きな欅と黒部からの大石のある所を通っていく。

DSC09405.JPG欅の大木と大石

 丁度、紅葉を終えた葉が散りだしていた。

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 石段を登っていくと、段々と幅が狭くなり曲がったところに数寄屋造りの家が建っていた。中に入ると翁の像があった。夫人の部屋は十畳、近くに婦人向けトイレがある。の茶室や広間、和室の方にもトイレがある
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 戻って行くと南天の赤い実にビニール袋をかぶせている。鳥が食べないようにしていた。

14時40分、近くの量覚院に向かう。右折して行くと綿菓子を作っていた。

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門を通る。

DSC09412.JPG量覚院山門

左手に「48世山主・山本倶徳」が書いた案内版がある。

「本尊秋葉大権現は717年泰澄大師の開創で、秋葉山上に防火の神として祀られ、1590年には徳川家康が小田原城主大久保忠世に管理を命じ、一月坊法印によって秋葉山上より御本尊を小田原に奉遷され、以来関東山伏の目付役としての役割を任ぜられます。毎年12月6日、各地から山伏が参加し火渡りの荒行等が行われ火難消滅、無病息災を祈願致します」

宿泊所には関東地区から山伏が集まっていた。祭りのために紙垂(かみしで)を四方に垂らした神式行場があり、中央の祭壇に鏡を祀っている。

DSC09416.JPG神式行場の祭壇

本堂まで上がって賽銭箱にコインを入れて三拝する。降りて行くと、山伏姿のWさんに会う。

「ここは明治維新前からの行事を守っている。明治26年から毎年12月6日に開催。神々の饗宴に参加する」

15時、本堂前に30人の山伏が集まり、勤行を始める。般若心経以外は良くわからない。オンヒラヒラテンノウソワカ・・ランダカンマクウンタラタ。女性4人。法螺を4人が吹く。中には富士山の村山古道で一緒だった白髪女性Tさん、白髪男性Sさん、埼玉のHさんがいた。

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広場の神式行場に移り、副住職が祭壇に向かってマイクを使って六根清浄、天清浄内・・と祝詞をあげる。

DSC09425.JPG神式行事

笹束を湯釜に突っ込んで観客に振りまく。餅つきが始まる。大久保藩主の家紋を背中に、胸の両脇に秋葉山と書いた印半纏を来た地元の人が交代しながらつく。般若心経を唱えながら、天女を描いた紙札をばらまく。ヒカクマンザイチョウジュ・・オンガミクダテセーカラ。山伏も参加して、ついた餅をまぶして千切り、参拝者に配る。まだ温かい。大きな赤い杯に菊の花びらを入れたお神酒をいただく。

DSC09427.JPGお神酒

 15時45分、終了。散会する。笹は1年のお祓いで仏壇や神棚に供える。割烹着を着たオバサンは台所に立つ者として火の神様の笹を持って帰るのが習わしと言う。端で外国人に説明している人に近づく。

「祭壇の前に立てた柱は柱源(はしらもと)神法(しんぽう)と言って天と地を合体させる意味で再生を示す儀礼がされる。只ものではない。

「この宇宙観は室町末から伝えられている。75とは沢山あるという意味で、山中にいる日数であった。羽黒山では15日しか修行しないのは嘆かわしいと言っている人もいる。75という数字は胎内にいることと関係している。中国古代から烏は太陽の使い、兎は月の使いと言われているが、日本でも太陽と月を祀っている」

序でに伺う。水行も麓で75日やるのが正式。お墓に水をかけるのは、死者の喉を潤すものだった。同行の人はフランスとインドネシアから来た女性。挨拶して名前を伺う。Sさん。(後日、慶應義塾大学の研究室に伺う。日本山岳修験学会会長でもあった)

広場の先、「天地帰命」「相模修験会」の旗が立つ奥の広場には既に火渡り用に四方に木を積み重ねていた。

 山伏姿の女性Aさんは水上からで催眠術師でもあった。Aさんがやって来て、この寺が秋葉山である由来を話す。静岡県秋葉山から御真躰が遷座された可睡斎は、明治時代以降、日本唯一の「火防(ひぶせ)パワースポット」で、日本唯一の御真躰をお祀する火防霊場という。東京の秋葉原はこの「秋葉」で、今の秋葉原に鎮火神社を祀ったことからだった。「得度してしまえば、さまになって来ます」と勧められる。彼自身は、たこ焼きの工場を須走と秦野で経営していた。

 17時30分、H氏が私服でやって来た。京都から宮城泰年聖護院門跡も見えていると言う。

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 18時、本堂で勤行が始まった。勤行は専ら般若心経を唱えていた。

DSC09434.JPG本堂の勤行

 

 火渡りの方で待つ。50分後、松明を持った2人が裸足で来て、焚き木の山に火をつける。

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 5分後には燃え上がり、顔が(ほて)る。

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 銀杏の葉が燃えそうだったが、防火木だけある。その内、マイクを使って行事を案内する。日常生活に必須の水と火を祀ること、毎年旧暦12月15日から16日に東北関東中部からの人が集まる。火渡りの後、お餅が配られるそうだ。

 19時12分、山伏達がやって来た。広場の手前で問答が始まる。不動明王、錫杖などの言葉が聴こえる。山伏は四角く歩き回って足袋を脱いで座る。

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 山口先達によるお祓い行事では天清浄、死清浄、六根清浄を唱えていた。埼玉の斎藤先達は鞘から刀を取出し、「本来無一物」と言いながら刀を剣道のように振って、太鼓の音に合わせて唱和する。埼玉の長谷川先達は大きな斧を使って火に向かって振り下ろす。斎藤先達は弓を持ち、角で矢を空に向かって放ち、最後に火元に放つ。

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 山本倶徳山主の声明が始まったところで、帰り時間となった。

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 急ぎ、板橋駅に向かい、20時2分発の箱根登山鉄道に乗る。新松田行き4両だった。4分後、小田原で降りてJRに行くと、20時14分発の湘南ライナーが遅れていて20時19分発東京行きに乗る。

 21時30分、川崎駅手前で止まる。「非常ボタンが押された」のが理由という。トイレで間違って押したためとわかり5分後、出発。

 21時58分、東京駅着。




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